Shimizu Tatsuo Memorandum
Essay
仕事部屋のはなし
『本』 (講談社刊) 2002年6月号より
ちょっと息抜き珈琲タイム

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 札幌に住みはじめて三年、目下の最大の悩みは仕事部屋がないことである。東京では三十数年暮らしたが、この間仕事部屋と自宅とを厳密に使い分け、家ではいっさい仕事をしなかった。現在借りているマンションは四LDK、うち二部屋を自分の部屋にしている。仕事部屋、と呼んで呼べなくもないにしても、これがもうひとつ仕事に身が入らない。原因はわかっている。職住近接がいけない。仕事部屋というものは、絶対に家の外へ設けなければいけないものなのだ。
 という屁理屈をこねまわし、今回の短編集をまとめるときも、北海道の山のなかのさる温泉宿を臨時の仕事部屋と定め、四日間こもってきた。自称自主カンヅメ。本人は仕事に対するきびしい姿勢の表れ、と思っているのだが、なぜか、だれも誉めてくれない。
 ほんとは温泉へ行きたいだけの話である。まず温泉があり、そこに行きたい願望があって、口実はあとからくっつくだけのこと。それにしても、なぜこれほど温泉好きになってしまったのか、じつのところはよくわからない。滞在中は一日に五回や六回は入っている。真夜中の露天風呂を独り占めし、星空を見上げながら思いきり手足を伸ばすときの快感くらいこたえられないものはない。この三年間、道内の温泉巡りをせっせとやり、日帰り入浴までふくめるとそれは四十数ヶ所におよんでいる。リピーターとなって、何度も行っているところはのぞいてこの数である。
 これくらい温泉遍歴を重ねると、当然目も肥えてくる。いまでは温泉ならどこでもいいというわけにいかなくなり、それなりにうるさい基準ができてしまった。
 それはつぎの三つである。
1 露天風呂があること。それもできたら囲いのない、大自然を満喫できる状態で入浴できることが望ましい。眺めそのものはなくてもよい。
2 掃除の時間をのぞき、温泉には二十四時間、いつでも入れること。
3 浴槽の湯を循環させたり、塩素消毒をしたりしない、湧いてくる湯を流しっぱなしにした、いわゆる正しい温泉であること。温度が低いため加熱しているのはかまわない。
 北海道は温泉天国といわれるくらい温泉に恵まれたところだが、以上三つをクリアしている温泉となると、さすがにそう数は多くない。お湯ならふんだんに湧いているところでも、温泉行政の不備や、温泉そのものに対する無知から、銭湯並みに消毒したり、濾過循環させたりしているところが少なくないのだ。一般的にいって、大勢の客が押しかける人気温泉地ほど、この傾向が強くなることは否定できない。
 オンシーズンのときは車で行く。だが冬は、とてもじゃないが車の運転はできない。そこで公共交通機関のご厄介になるが、これがけっこうわずらわしい。なぜかというと、持って行く荷物が半端な量ではないからだ。パソコンとその周辺機器かって? いえいえ、持って行く飲みものや食いものがべらぼうに多いのである。
 まず、なにはともあれコーヒーのセット。コーヒー豆、コーヒーミル、濾紙、ドリッパー、カップ、すべて持参する。辺鄙な山のなかの温泉宿であればあるほど、一杯のコーヒーのありがたみはます。カップくらい旅館備えつけのものでいいじゃないか、といったセンスの持ち主は、この先をもう読んでくれるな。このところ、どこへ行くにも持参しているのが、ミロの絵をうつしたスペイン製のマグカップ。十数年まえ、郷里の高知県立美術館で千五百円で買ったものだ。カップはいくつも持っているが、ふだん使いのものとしては、まだこれ以上のものに出合っていない。
 旅館でコーヒーをいれるとき、いちばん困るのはお湯である。昨今の旅館で出されるお湯というと、ほとんどが電動ポット、これがものすごく使いにくいのだ。ボタンさえ押せばお湯が出る、というのは一見便利なようだが、それは急須にお湯を入れるときのことであって、ポットは持ち上げられないわ、出るお湯の調節はできないわ、とてもじゃないがコーヒーをいれるときは使いものにならない。
 それでやむなく、コンパクトセラミックヒーターという携帯用の電動湯沸かしを持参している。もともと海外旅行用につくられたもので、水を入れたカップや容器に棒状になったセラミック部分を差しこみ、電熱によってお湯を沸かす道具である。急須も旅館のものはコーヒー向きでないから、注ぎ口の細い銅製の急須を持って行く。こだわればこだわるほど、持って行く道具がふえてしまうのである。
 座布団も持参したいもののひとつだ。一度ウレタン製の、浮き袋みたいなポコンポコンの座布団しかない旅館で仕事をしたことがあり、とてもじゃないが坐れたものではなかった。しようがないから布団を折って代用したが、坐り直すときはいちいち自分のほうが動かなければならず、そのたびに腹を立てた。できたらこれも、ふだん愛用しているテンピュールのクッションを持って行きたいのだ。ところが大きすぎて、ボストンバッグに入らないのである。それで車で行くとき以外は、旅行用の空気枕で代用している。これにほんの少量空気を入れ、座布団として使うのである。
 電気スタンドも、延長コードも、できれば持って行ったほうがよい。コンセントが手近にないため、部屋の隅っこで仕事しなければならなかった経験は何度かしている。あたりまえのことだが、旅館というものは、仕事をする人間に使いいいようにはつくられていない。そのうえでもうひとつ、逗留客をいちばん苦しめるものが、じつは食事なのである。
 温泉旅行のいちばんの楽しみというと、なんといっても食事、とおおかたの人は答えるだろうが、とんでもない。何日か逗留すると、これが拷問になってしまうのだ。だいたい旅館で出てくる懐石もどきの料理など何日もつづけて食べられるものではない。三日もすれば飽きる。豪華さに飽きるのではない。やたらと皿数の多い、みてくればかりのご馳走の正体が、三日もいるとわかってしまうのである。それを悟られてしまうから、旅館のほうでも、ひとりの逗留客は、どこでも歓迎してくれない。
 それで、仕事に出かけるときは食う楽しみをはなから断念する。その代わり、こちらの食いたい最小限のものを持参する。第一にそろえるのが果物。ミカン、バナナ、リンゴをはじめ、できれば四、五種類の果物をそろえ、一日二回ぐらい、疲労回復や気分転換に食う。ほかにはパンと駄菓子。パンは日持ちのいいライ麦パンのブロックを持って行く。腹が減ると、それをなんにもつけずかじるのである。ぼそぼそしてけっしてうまいものではないが、それでも旅館の決まりきっためしよりはましに思えるときが多い。
 さらに、寝るときに読む本。これは文庫で、読みでのある、厚いものを最上とする。駄菓子も、本も、必ずしも食わなくてもいいし、読まなくてもいい。あるだけで安心する。つまり用意した段階で、すでに目的は達している。だからこのふたつは、帰りにたいてい捨ててくる。
 わずか数日の滞在でも、最後はいつもこのような大荷物になってしまう。うんうんいいながらそれを運んでいるときは、なんでこんな苦労をしなきゃならんのか、と腹を立ててしまうのだが、これだけの道具立てをしないと、仕事ができないのだからしようがないのである。しかしよくよく考えてみると、東京にいたときと、なんにも変わっていなかった。要するに自宅というものは、物書きにとって仕事場にはならない、ということをいいたいのだ。作家と作品の関係は、自宅と仕事場の距離が、離れていれば離れているほど完成度はより高くなる、という法則が成りたつのではないかと思っているのだが、これも賛成してくれる人はそんなにいないだろうな。

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