Shimizu Tatsuo Memorandum
Essay  『きのうの空』によせて

根なし草
『波』 (新潮社刊) 2001年5月号より
風に吹かれて

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 札幌で暮らしはじめて間もなく二年になる。このごろでは東京が必要でなくなってしまい、いまの生活のほうが自然なものに思えている。住めば都、もともとどこへ行っても抵抗なく暮らせるほうなのである。といって、必ずしもその土地に溶け込んでいるということではない。むしろ溶け込めないほうだ。知らないところで暮らすことに慣れているというにすぎない。
 これまでを振り返ってみると、記憶にあるだけでも十五回引っ越しをしている。その大方が少年時代のものだ。十年以上ひとつところに腰を落ち着けて暮らしたのは、結婚して、子どもができてからだけ。悔しいことにこれがおよそ三十年もつづいた。あえていうなら中世の暗黒時代にも比すべき人生の一大停滞期であり、拘禁期間であり、痛恨の異常事態だった。遊牧民が農耕民をさせられたようなものなのだ。

 といったって、実際は仕事場と称する住まいをべつに構え、週末以外はそちらでのらくらしていたのだから、妻子の耳に入ったらだれが拘禁されていたんだと怒られそうだが、この避難場所があったからこそなんとかやってこれたと自分では思っている。ついでにいうと札幌にやって来たのも、公称は病後の女房の転地療養のためということになっている。この辺り、よけいな詮索はしない。自己にはきわめて寛容なのである。

 だいたいがひとつところにじっとしておれない質なのだ。根気がない。飽きっぽい。むらっ気。計画性ゼロ。むかしから腰を落ち着けてとか、こつこつやるというのが徹底的に苦手だった。これは小説についてもいえ、何か月も、何年もかけてひとつテーマを掘り下げ、数千枚に及ぶ大長編小説をものにする、といった芸当はとてもできそうにない。連載小説をあまりやらないのも、やらないのではなくてできないのである。壮大な構想と、目配りの効いたプロット、計算しつくした肉づけをして作品を仕上げる、といった能力がまったく欠如している。

 行き当たりばったり、その場しのぎの思いつき、安直なストーリー展開、といった垢にまみれているから、長いものを手がけるとすぐにぼろが出る。まして連載小説となると半年もすれば支離滅裂、あとの収拾がつかなくなる。連載終了後、一冊にまとめるのは塗炭の苦しみである。だったら最初からやらないほうがまし。ということで、かくて寡作作家という名誉称号をいただいているわけである。

 短編小説ならできるのである。雑誌で発表する以上締め切りがあり、期日がくると否応なしになにか書いて渡さなければならない。そして追い詰められてくると、火事場の馬鹿力みたいな、ふだんの五割増しくらいの集中力が発揮できて、わーっとやってしまうことができるのだ。ただし長くても三日が限度、それ以上はつづかない。枚数にして五、六十枚止まりということである。そういえばむかしから一夜漬けがいちばん得意だった。おかげで母親を「おまえはほんとにずぼらなんだから」と死ぬまで嘆かせた。しかしわたしにいわせれば、それだって半分は親の責任だと思っている。

 小さいときからあっちこっち転々とさせられたため、ひとつことに打ち込んだり、長い時間をかけてなにかを成し遂げたりすることがなかった。その土地に馴染んだころは、もうべつのところへ移らなければならないのである。見てくれのいい、促成のものにしか目が行かなくなるのはやむを得ない。ちなみに東京へ出てきたのは二十六のときだったが、田舎から出てきたわりに、ことばではなんの苦労もしなかった。方言を身につける機会がなかったからである。

 歴史とか、伝統とか、帰属意識とかとも無縁、終始切り離されていた。したがって会社勤めや団体活動などできるわけがなく、階級だとか、序列だとか、制度だとかいったものの前では立っただけで腰が引けてしまい、なかに入ることができない。どこへ行っても浮き上がってしまうのである。それでなくても日本の地域社会は閉鎖的で、紛れ込んで来た異分子は、お客さん扱いしこそすれ、肝心のところでは必ず排除してしまうものなのだ。ハーンやモラエスを引き合いに出すほどのことではないかもしれないが、この差別化は同胞であろうが絶対に容赦してもらえないことだった。

 だとすると、差別される側は、そういうところへは自分から加わるものかという意識を持つことでしかアイデンティティを保てなくなる。なにものにも忠誠を誓わないことで、かろうじて自分の矜持を維持できるのである。孤高といえばかっこいいが、それ以外の自己防衛手段がなかった。阿Qの心境である。多様性に富んできたいまの社会でも、通常なら、こういう人間には居場所がない。小説というジャンルがあったおかげでなんとか世渡りできるようになったが、もし小説で芽が出ていなかったらいまごろどうなっているか、それを想像するのはけっして楽しいことではない。

 今回の作品集には、そういう自分の通りすぎてきた街や、触れてきた時代のイメージが繰り返し登場している。過去の総決算をするつもりだったから避けては通らなかった。それでこの作品を書いている前後にも、何度か故地を訪ねては実際の感覚をたしかめてきた。

 小学校の五年から高校一年まで、約五年間をすごした島根県のM市は、かつての地方都市の求心力を失ってさびれた田舎街になっていた。歩いていて街の鼓動というか、心拍音のようなものが聞こえてこないのだ。それは静寂というより虚ろに近いものだった。わが家の跡地は駅から近かったこともあって、小さなスナックや飲み屋がひしめく歓楽街になっていた。ただしいまでは半分以上が営業しておらず、街は乾いて埃っぽかった。かつての道までなくなっていたため、区画の周りを遠巻きに一周できただけだった。

 山口県のA町では、五歳から小学校五年まで、終戦を挟んで五年あまりを過ごした。その間この小さな町のなかで三回も引っ越しをしている。その跡をすべて訪ねてみたが、ふたつまではブロック置き場になったり蜜柑畑になったりして位置もはっきりしなくなっていた。しかし五人きょうだいの下のふたりが生まれた家の跡は、敷地がそのまま駐車場となって残っていた。

 それが車数台分しかない、間口五、六メートルの、きわめて小さな面積だったので、はじめは容易に信じられなかった。両脇の家が残っている以上その場所にちがいないのだが、建て替えたときに敷地を広げたんじゃないかとはじめは疑ったくらいだ。子ども時代の記憶では、平屋ながらもここに大邸宅があったように思っていたのである。なにしろ庭にはさくらんぼの木があり、ブランコがあって、空襲が激しくなってくると父親が防空壕をつくってくれたくらいだ。耐火煉瓦づくりの本格的なものだったが、素人工事の哀しさ、防水対策にまで頭が回らなかったようで、雨が降るたびに水濠と化した。

 戦後進駐軍がキャンプを張っていた遠浅の浜は、白砂がすっかりなくなって痩せ衰えた入江となり、消波ブロックに白波が叩きつけていた。浜を埋めつくしていたみごとな松林は完全に消滅していた。兵士たちの運動用に田を埋め立ててつくられたグランドの跡は、ふたたび田に戻されることなく打ち捨てられて草が繁るにまかせていた。

 当時の知己、隣人で、その後も交際がつづいた人はひとりもいない。恋愛感情を抱いていた人ですらそうだった。その土地を去った段階で、幕が下り、記憶は閉じられてしまった。四十年後に訪れてみたところで、過去と現実とをつなぐ接点はどこにもなかった。行き場のなくなった記憶だけが、根なし草となってそこらを漂うばかりである。

 自分を漂泊志向や放浪癖のある人間だとは思っていない。詩的要素からはいちばん遠いリアリストにすぎない。散文であり、モノローグである。リズムはあってもメロディはない。かといってそれほど明確に自分をとらえているわけでもない。自分の拠って立つところがない根なし草から抜け出すことができないまま、気がつくと老年を迎えていたということだ。こうなったらこれから開き直って生きてみようか。

 つぎは九州にでも行ってみよう。



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