Shimizu Tatsuo Memorandum
Essay
年を忘れた子どもの話
日本経済新聞 2009年8月30日 朝刊掲載
日本経済新聞掲載エッセイ「年を忘れた子どもの話」

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 東京暮らしをやめて十年になる。札幌で八年すごし、いま京都が二年目。十年一区切りですからそろそろ帰ってきませんか、という声もあるのだが、まだなかなかその気になれない。
 札幌へ行ったのは、一度北国の暮らしをしてみたかったからだ。生まれが高知。各地を転々としたものの、すべて西日本だった。二十代の後半になるまで、不破の関も安宅の関も越えたことがなかった。
 京都へやって来たのは、時代小説を書きはじめ、しばらくこちらに専念しようと思ったからだ。日本一の古都だから、材料が山ほど転がっているだろうと単純明快な期待をしたからにほかならない。
 落ちつくとすぐ、家の周辺からすこしずつ行動範囲を広げていった。ところかまわずうろついて、路地の隅々にいたるまで手の内に入れてしまわないとおさまらない性分なのだ。
 間もなく、自宅から東山まで歩いて三十分しかかからないことに気づいた。清水寺、円山公園、知恩院がいずれも同じ距離にあって、三十分もあれば東山へはいって行ける。坂上田村麻呂の像を埋めたとされる将軍塚まで、一時間しかかからない。

 東山三十六峰草木も眠る丑三つどき、ということばが頭の中に刷り込まれている。アラカン扮する鞍馬天狗映画の巻頭の名調子である。
 当然そのころの子どもの遊びというとチャンバラしかなく、めいめいが鞍馬天狗や近藤勇に成りかわって、笹の刀を振りまわしながら山のなかを駆けまわって遊んでいた。
 将軍塚へはじめて登ったとき、東山の森がそのチャンバラ山そっくりであることに気づいた。カシやシイ、クスといった照葉樹が鬱蒼とした森をつくり、ところどころ植林されたスギやヒノキが混じる森だ。
 考えてみると子どものころをのぞき、近くにそのような里山のあるところでは暮らしたことがなかった。
 照葉樹の森は、上空が常緑樹の葉でおおわれ、地上まで光が届かず、あたらしい植物が育たない。落ち葉や枯れ枝が積もるばかりで、一歩踏みこんだだけで鬱蒼と暗い。柴刈りの必要がなくなったからいまでは人もはいらず、うす気昧のわるい、恐ろしい森でしかなくなっている。
 事実いつ行っても歩いている人はまれ。最後までだれにも会わない日のほうがはるかに多かった。

 だがこういう森を知っているものには、これくらい気持ちよくすごせるところもない。下生えがないから道がなくっても平気で歩けるし、ブヨや蚊も少ない。チャンバラをして遊びまわっていたのが、まさにこういう森だったのだ。
 それを六十年たって忽然と思い出したのである。まさに郷愁の森。しかもこの森にはスダジイの木が無数にあった。この実は生で食えるし、炒って食うとほくほくしてじつにうまいのだ。
 東山を自分の庭としてしまうのにいくらもかからなかった。間もなく完全踏破。さらにテリトリーをひろげようと、つぎは蹴上から鹿ヶ谷へと目標をしぼっていた矢先のこと。
 重要なことをひとつ見落としていた。森は子どものころのままだが、こちらはその間に六十も年取っていたということだ。つまり自分が老人になっていたという自覚を、まったく欠いていたのである。
 昨年の秋、急坂で足を踏みはずして転落、レスキューに助け出されて、病院に担ぎこまれるという醜態を演じてしまった。以来十ヶ月。いまだに右手は拳が満足に握れないし、右足も完調とはいいがたい。一年たっても怪我が回復しないほど、からだは耄碌していたのである。
 おかげで不本意ながら、まことに不本意ながら、ひとりでの山歩きはひかえざるを得なくなった。
 とはいえうろつく癖はそう簡単にあらたまるわけもなく、行き先を街に切り替えただけ。カメラとメモを片手に、いまも暇さえあれば市内をほっつき歩いている。

 それで改めて気がついたことは、京都という街の濃さだ。街がおどろくほど狭い。木屋町界隈ひとつをとってみても、一キロ四方ほどのところに幕末の記憶がこれでもか、これでもかというくらい詰まっている。尊王佐幕が入り乱れ、まことにるつぼのごとき状態であったことが容易にうなづけるのだ。
 思わぬところで思いがけない石碑を発見してびっくりする。思いもよらない疑問が浮かんできてあわてて調べはじめる。するとそっちがおもしろくてたまらなくなり、仕事そっちのけになってしまうこともしょっちゅうである。
 というわけでいまは京都をわが庭とするべく、歩きまわっているところである。この街が自分の作品にいつ登場してくるか、まだ見当もつかない。面白がるだけで終わってしまうかもしれないのだ。自分の寿命があとどれくらいあるか、そういう自覚を依然まったく欠いているからである。



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