Shimizu Tatsuo Memorandum
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随 想  『神戸新聞』掲載

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 大通り公園の納涼ビヤガーデンが閉幕し、街路樹の葉が色づきはじめた。夏が終わろうとしている。札幌の夏はことしも短かった。しかも最高気温はとうとう一度も三十度を超えずじまい。長い冬がこのまえ終わったばかりなのにもう秋なのである。
 とはいうものの札幌での四年間は、当初予想していたよりはるかに快適だった。いっそこのまま住みついてしまおうか、と考えないこともなかった。せめてあと数年滞在期間を延長しようかと。しかし迷いはしたがやはりことしでおしまいにしようと思う。なぜならべつに快適さを求めて越してきたからではないからだ。東京から出て行くことで、東京にいては見えないものが見えてくるのではないか、と考えたからこそ移ってきたのである。
 二十六の年に上京し、以後三十四年東京で暮らした。それなりに慣れたし、自分の居場所も見つけたように思ったが、東京に対する帰属意識みたいなものはどうしても持つことができなかった。むしろあらゆる部門で突出し、一極集中がすすめばすすむほど抵抗感というか、割り切れないものが増大するようになった。おそらく自分が地方の出身だからだろう。地方を枯らしてなにゆえの繁栄かと、どうしても身構えてしまうのである。
 かといってわたしなどに地方を活性化させるためのいい知恵などあるわけもない。またそういう発言をしたいとも思わない。自分を東京から切り離し、そこから周囲をながめてみるだけである。あえていうならそれがひとつの意志表現ということになるだろうか。小説家などものの中心にはいないほうがよいという、きわめて私的な選択の問題である。
(2003年8月掲載)

 仕事ついでに夏休みをとり、二週間ぶりに自宅へ帰ってくると、ベランダの鉢植えが全滅しかかっていた。洗面器や鍋類を総動員して水を張り、そこに鉢を入れてそれなりの対策はしていったのだが、とうていたりなかったようだ。
 あきらめたもののとりあえずたっぷり水をやった。おどろいたことにけさ見ると多くの鉢が生色をとりもどしていた。立ち直れなかったのはミニ菜園ぐらい。ほかはなんとか甦ってくれそうでほっとしている。
 それよりとっくに明けているものとばかり思っていた日本の梅雨が、まだつづいていたことがもっと意外だった。一方今回の旅先だったスイスはというと猛暑とからから陽気つづき。草原や牧場のいたるところでスプリンクラーが必死に水をまいていた。滞在三日目にまとまった雨が降ったところ、八十六だという宿のばあさんが手をたたいて喜んだ。こんなことははじめてだというのだ。
 こういう天候を即異常気象といっていいのかどうか、わたしにはわからない。ルツェルンにある氷河博物館に行くと、各地の氷河がこの百年間でどう景観を変えたか二枚の写真で対比してある。それを見ると氷河がいかに退化しつつあるか一目でわかる。あと百年もすれば氷河などなくなってしまうのではないかと心配したくなるほどだ。
 数百年単位のレベルで見れば、少々の変化など自然なばらつきとして平均値のなかにおさまってしまうのかもしれない。それより進化すればするほどもろくなり、わずかな変化にも敏感に反応してしまう人間生活の基盤のほうをもっと問題にすべきだろう。水さえあれば生きてゆける植物の生命力のほうがいざとなればはるかに強そうだ。
(2003年8月掲載)

 ニセコ近くの山の中を走っていて、車にはねられたキタキツネの死体を見かけた。年に数回見かける。ということは、年間にすると相当数のキツネが車に殺されているはずだ。北海道のキツネは天寿をまっとうすることがきわめてむずかしい動物になってしまった。
 その元凶は人間が餌をやることにある。車の音がすると道路へ出てくる子ギツネさえいる。ある温泉で、夕食時間になると食堂の前へキツネが出てきて、犬のようにお坐りしてなにかくれるのを待ちはじめたのを見たこともある。
 この春釧路の春採湖へ行ったとき、泳いでいた二羽の水鳥がわたしたちの姿を見るとすーっと岸へ寄ってきた。はじめて見る黒い鳥だ。ネイチャーセンターで聞くとオオバンだと教えてくれた。それほど簡単に見られる鳥ではない。
「ものすごく用心深い鳥で、去年までは人間のそばへ近寄ることなど絶対になかったんですけどねえ」
 おそらくこれも餌で手なずけられてしまったのだろう。しかしこういうことが果たして野生の鳥にとっていいことかどうか。
 というのも人間の与える餌は小動物にとって有害なものが多いからだ。人間にはなんでもないスナック菓子を無害化、消化できる器官を持った小動物はいないと思われる。いまやどこにでもいるカルガモが餌としてよくもらっているパンくずにしても、いくつもの添加物が入っている。それらは本来体内に取り込むはずのなかった物質なのだ。
 野生動物の数が激減しているという。人間の与える餌、人間の残飯を食う動物ほどその確率が高いのではないかと思う。それが証拠に、人間から餌をもらわないシカはそれほど数を減らしていないからである。
(2003年7月掲載)

 やっとデジタルカメラを買った。新しいものに対してはなんでもそうだが、その製品が普及して性能的にも安定してきたころになってようやく手を出すほうである。今回もそう。いくつかの候補にしぼってから調べまくり、量販店で実物に触れたうえで買うものを決めた。いわば満を持して手に入れたといっていい。
 ところがこれが使いこなせないのだ。買ってきた日に三時間、マニュアルと首っ引きで現物を操作していたらとうとう気分が悪くなってしまった。マニュアルが読み通せないのである。何をいってるんだかさっぱりわからない。文章を理解するのに疲れ果てほんとに頭が痛くなってきたのだ。四十年前、はじめて一眼レフを買ってわくわくしながら現物をいじったときのあの喜びや感激とは比ぶべくもなかった。
 以来一週間、すこしずつ試してなんとか撮影できるようにはなったが、印刷したりメールに添付したりといったことにはまだ挑戦していない。機能が複雑になりすぎ、しかもどうでもいいことが多すぎる。そしてこれがわれわれアナログ世代の特徴だと思うが、それにいちいち引っかかって先へ進めないのである。
 ワイフにメールを教えているとよくわかる。選択場面が出てくるたび「これはどういうことなの?」とことごとくひっかかる。「ここははいを選んでおけばいいの」とそのときは答えるものの、いわんとすることはよくわかるのだ。書いてあることを理解して納得しないと先へ進めないのである。生まれたときからブラックボックスに取りかこまれ、イエスかノーかの選択しかなかったデジタル世代との差が、こういうところにいちばん出てくるのではないかと思う。
(2003.7.4掲載

 パソコンのメールアドレスを変えたところ、五月いっぱいで失効した旧アドレスが画面に出てきて邪魔をしはじめた。削除したのに消えない。削除し残しているものがあるようなのだが、それがどこにあるかわからない。あれこれやっているうちに本体までおかしくなってしまい、最後はプロのお助けマンに来てもらってやっと修復できた。
 しょっちゅうこんなことをやっている。ワープロ時代からだと二十年のキャリアがあるのに、いまだに超初心者である。というよりワープロのころより事態はいっそう悪くなっている。機器が進歩すればするほどわからなさ度がましてくるのだ。どうやらデジタル時代に完全に置いて行かれてしまったようである。
 じつをいうと携帯電話も使ったことがない。ふたりきりの生活なので、外出するときはどちらかが携帯電話を持ったほうがいい、といつぞやからいいながら、いまだに踏ん切りがつかない。持つこと自体に抵抗があるのだ。なぜかというと、見ていてほれぼれするくらいかっこよく携帯電話を使っている人にはまだお目にかかったことがないからだ。あれほど醜い格好もないと思うのである。
 しかも電話機だとばかり思っていたものが最近はカメラに進化してしまい、ますますわけがわからなくなった。電話機でどうして写真を撮らなければならないのか、そこのところが理解できないのだが、これ以上いうと年寄りの愚痴になりそうだからもうやめよう。
 これまでやはり携帯電話は必要だ、と強く思ったことが二回ある。田舎道で雪にあい約束の時間に間に合いそうもなくなったときと、日光の戦場ヶ原で車が故障したときだ。
 その二回きりである。
(2003.6.25掲載

 札幌ドームへプロ野球を見に行ったおり「広場」という名称がまだ使われていたのでびっくりした。広場というのは市がドームにつけた愛称なのである。一般公募をして選んだ名だが、ドームでわかるものをなぜわざわざ広場と呼ばなきゃならんのか、選定当時から評判の悪かった名称だ。結局だれも使わず、JR東日本の「E電」と同様消えてしまったものとばかり思っていた。ところが市の公式名称のうえではまだ生きていたのである。
 ごろ合わせから地口、だじゃれ、妙な愛称がはびこるのは困ったものだが、その中心になっているのは多くの場合行政なのである。目新しいことばには人一倍敏感だが、言語感覚はおどろくほど鈍い。公募すればいいというものでもないのだ。いまどきの応募者はどういう傾向のものが採用されるか、選ぶ側のレベルを見越して応募してくるからである。
 もうひとつ関係者に知っておいてもらいたいことは日本語のリズムの問題である。日本語の基本リズムは二拍子ないし四拍子で、長くなると縮めて使われる宿命を持っている。たとえばきょうの新聞を見ていたら「ボラナビ」ということばが出ていた。ボランティアナビゲーションの略らしいが、記事がなかったらまずわからないことばだ。長い名称が縮めて発音されるのは防ぎようがない。だとしたらそれがどういう風に縮められるか、そこまで考えたネーミングにすべきなのだ。以前三宮駅で「ポーアイで…」という看板に出っくわし、それがポートアイランドの略だとわかってぶったまげたことがある。この名を思いついた人は、ここが将来ポーアイと呼ばれるだろうということまで考えていたのだろうか。
(2003年6月4日掲載)

 身内に不幸があって大阪まで行っていた。葬儀は民営の斎場で行われたのだが、ぎょうぎょうしくてわざとらしい式典がなんとも不愉快で腹立たしかった。わたしが死んでもこういうセレモニーだけはしてもらいたくない。
 これらの葬儀で痛感することは、なにもかもが斎場につごうのいい組み立てられ方をしていることだ。焼香のとき女性職員がしゃしゃり出て「左側へ一列に並んでください」といちいち言いたて、手までそえて意に従わせようとしたときは怒鳴りつけたくなった。故人の近親と友人だけのしめやかな葬儀で、何百人もの会葬者がつめかけていたわけではないのだ。
 じつは八年まえ、生涯でたった一度の母の葬儀を、業者任せにしたことでいまでも思い返すたびにからだがわなないてくるほどの怒りと悔いを残している。わたしは喪主として最前列に祭りあげられ、すべては後で進行して、だれが来てくれていたかもわからなかった。数十年ぶりに駆けつけてきてくれた母の従姉妹に挨拶すらできなかったのである。
 葬儀というものは、故人をいたむ儀式であると同時に残されたものの交歓の場でもある。つまり故人は、死ぬことによって自分の周辺にいた人を一堂のもとにつどわせてくれるのである。そういう配慮が業者主導の葬儀にはまったくといっていいほどない。
 自宅に大勢の人を招くことができない以上斎場を使うしかないわけだが、式次第だけは自分で考えるべきだろう。親しかった人が久しぶりに顔を合わせ、和気あいあいと思い出ばなしに花を咲かせてくれるような葬儀なら、死者としてこれ以上うれしい別れはないと思うのだ。
(2003年5月20日掲載)

 二十年近くまえの話になるが、神戸市民か三田市民になりかけたことがある。取材で関西へ来ていたとき、たまたま三田ニュータウンにまぎれ込んでしまい、そのロケーションが気に入って、よしここに住もうと衝動的に決めてしまった。東京へ帰るなりすぐかみさんを連れてきて現地を見せ、以後何回か住宅や宅地の申し込みをした。
 神戸のほうも時間的には多分その前後だった。市の公社だったかの宅地の売り出しがあり、ものは試しと足を運んでみた。地下鉄の終点から数分という距離だったが、前方に海が見えて、緑の島が横たわっていた。それが淡路島だとわかったとたん、うん、ここでいいと思った。
 わたしもかみさんも高知の出身なのである。神戸という街には、子どものころから親近感やあこがれみたいなものを持っていた。だから東京から神戸へ住まいを移すことにはなんの抵抗もなかった。
 もしあのとき抽選に当たっていたら、いまごろは三田市民か神戸市民として暮らしていたはずである。あいにくくじ運が悪くてその願いはかなわなかったが、あきらめてしまうまで二年ぐらいは行ったり来たりしていた。
 現在札幌に住んでいるのは、そのときの延長線上のようなものである。つまり定住する代わりに、知らない土地で何年か暮らしてみることにしたのだ。
 その札幌がもう四年になる。自分の残り時間を考えたら、そろそろつぎの街へ行かなければなるまい。最後はどこで終わるかわからないにしても、東京だけはごめんだと思う。この先ずっと漂泊しながら暮らせたら、それはそれで満足すべき人生だったといっていいだろう。
(2003年5月2日掲載)

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