Shimizu Tatsuo Memorandum

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Web Essay
志水辰夫の
在道随想


雪のない札幌から 2002.12.12
終の棲家は・・・ 2002.12.08
帰ってきたけど 2002.11.29
なにもない話 2002.11.20
とうとう雪の季節になった 2002.11.04
気分は縄文人 2002.10.29
ときにはフルーツソースの話でも 2002.10.16
豊平川で鮭を見た 2002.10.07
六泊七日の旅を終え 2002.09.15
寒さにふるえる夏もある 2002.08.05
反省だけならサルでもできる 2002.07.25
書ければの話 2002.06.23


2002年12月12日
雪のない札幌から
 ときならぬ大雪となってしまった関東をあとに、北海道へ帰ってくると札幌はからから陽気、あきれたことにまったく雪がなかった。関東が異常気象なら北海道もそうらしく、十二月の十日にもなって雪がないのは十五年ぶりだそうだ。
 朝九時半にわが家を出てくるときの積雪が十三センチあった。多摩の丘陵地というのはそれくらい降るのである。家のすぐ後を走っている多摩モノレールがエンコして動かなくなっていた。さいわい始発前の試運転列車だったとみえ乗客の姿はなかったが、地上十メートルの高さで動けなくなってしまったモノレールの運転手は、さぞかしおしっこしたくて困ったんじゃないだろうか。八時過ぎに引き返してしまうまで三時間くらい動かなかったのである。
 とはいうものの他人事ではなく、こちらも羽田に着いたら予定していた航空機が欠航になって大迷惑した。二時間遅れの便に乗れたものの、札幌に帰り着くまで八時間以上もの長旅になってしまったのだ。
 飛行機に乗るときはいつも千円余分に出して傷害保険を掛けることにしている。ロビーにその自動販売機というか、受付機が置いてあるからごぞんじだろうが、千円で四千万円が保障される一回かぎりの傷害保険である。この日は珍しく、二台並んでいたうちの一台で女性が加入手続きをしていた。最近はこの保険に加入している人をあまり見かけないのだ。
 保険は好きじゃないくせに、この保険だけは例外、千円で四千万円が妻子にプレゼントできるなら安いものだと思っている。掛け捨てだからあとくされがないのもいい。もちろん夫婦で乗るときはふたり分掛ける。かみさんはそのたびもったいないというが、千円余分に出してスーパーシートに乗るか、保険つきにするかの選択だと思えばいいのである。
 一回、妙に胸騒ぎがして、あ、きょうはひょっとすると落ちるかもしれないぞ、と思ったことがある。だからそのときは倍額の二千円掛けて乗った。これで八千万円確保したと思うと、ほかの乗客に対する優越感が働いて、乗っている間じゅううきうきした気分だった。ぶじに着いてしまったときは半分がっかりしたものだ。どうやらわたしには予知能力がないみたいである。
 掛けるのが習慣になってくると、今度はうっかり忘れたり、手続きする時間がなくて掛け損ねたりしたまま乗ってしまうと、ものすごく不安になる。時間ぎりぎりに駆けつけて手続きする間もないまま乗ってしまったことが何回かあるのだが、空に上がってそれに気づいた途端、しまった、と真っ青になる。落ちたら犬死というか、無駄死になるわけで、それこそぶじ着くまで生きた心地がしない。千円を出し惜しんで四千万円もらい損ねたといわんばかりの後悔なのだ。なんとも精神衛生に悪いから、せめて手続きをするぐらいの時間は取れるように空港へ出かけている。
 しかし保険会社にはいっておきたい。四千万円なんてけちな金額にせず、五千万円くらい保障したらどうなのだ。そしたらお客もはるかにふえ、収益増にも絶対つながると思うんだが。
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2002年12月8日
終の棲家は…
 あした札幌へ帰る。今回は二週間足らずの滞在だったが、あわただしくて落ち着かなかったことしか印象にない。航空券を買ってあったからあすになったまでのことで、この数日はむしろ札幌へ帰りたくてたまらなかった。こんなことははじめてだった。自分の家にもどってきたという安息感が最後まで得られなかったのである。仕事は予定の半分もできなかった。
 いちばん参ったのが家のなかの寒いことだ。まだ真冬でもないのに朝方の気温は室内で十二、三度まで下がってしまう。ここしばらくぽかぽか陽気がつづいていたのにこの気温である。と書くとそれくらいの気温で寒いなんて言うんじゃないよ、と叱られそうだが、札幌で暖かい家に慣れてしまった身には、これはもう居住空間として耐えがたい気温としか思えないのだ。札幌だとどんなときでも二十度を下回ることはないのである。
 だから家にいるときはエアコンとガスヒーターをつけっぱなしにしていた。設定気温を二十一度にし、ときどきはその気温まで上がるのだが、それでも妙にうすら寒い。どこからか隙間風が吹いてくる。事実足もとはたしかに冷たい。現にいまも椅子の上であぐらをかいてパソコンに向かっている。
 きょう、東京の最高気温は六・五度だったとかで、ことしいちばんの寒さだったと報じられていた。北海道に住んでいる人間には、これくらいの気温はなんでもない。というより、この程度で寒い寒いといってるのは大げさだとしか思えないのだ。つまり気温は高く、家の中では寒く暮しているのが東京の人間で(というより本州以下ほとんどの各地がそうだろう)、気温は低く、家の中では暖かく暮しているのが北海道の人間ということになる。エネルギー問題を抜きにすれば、どちらの暮らしが快適だと思いますか。
 都心へ出てゆくのに時間がかかるのもだんだん億劫になってきた。新宿まで小一時間というのは、首都圏なら標準かもしれないが、札幌での街の真ん中まで歩いて十五分という環境と比べると、不便極まりない距離でしかない。おととい、久しぶりに旧友たちと会って夜の十一時までだべっていた。そのあと電車で帰ったのだが、これが満員で、最後まで立ちっぱなし。つらくてつらくて、こんなことならタクシーにすればよかったと、乗っている間じゅう後悔していた。金はかかっても、それに替えられないくらい体力が落ちている。新宿駅の雑踏にたじろぎをおぼえたのもはじめてである。
 結婚以来ずっと札幌で暮らしていた友人の娘が、ことし三月、転勤で東京へもどってきたそうだ。それが一年もたたないのに、もう札幌へ帰りたい帰りたいと言っているとか。わかる気はする。札幌ぐらいの街が住むのに手ごろなのである。しかしそれであらためて思ったのだが、自分の住みたかった街で暮らしている人など、いったいどれくらいいるのだろうか。いまだにふらふらしているわたしはどうやら「終の棲家」探しで一生を終えてしまいそうな気がする。
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2002年11月29日
帰ってきたけど
 二か月ぶりに東京へ帰ってきた。車を持って帰るのがいちばんの目的だったが、そのほかにも運転免許証の更新だとか、同窓会や悪友からの誘いだとか、仕事の打ち合わせ、親睦など、二週間しか滞在しないのになぜかそれを待っていたみたいに連日スケジュールが詰まっている。今回はかみさんなし。つまりひとりなのだ。だからこの際悪いこともいっぱいしようとてぐすね引いていたのに、これではなんのために帰ってきたかわからない。
 ほんとはもうすこし早く帰りたかった。しかし二十三日と二十五日に、どうしても見ておきたい記録映画の上映会があったため、それを見ないでは帰ることができなかった。十一月も中旬からたびたび雪が降り、多いときはひと晩に十センチ以上積もったから、そうなるとすぐには解けず、正直なところひやひやものだった。帰ってきた日も、前の豊平川の河川敷はまだ真っ白だったのである。
 余談になるが二十三日の映画のとき、休憩時間にロビーで北海道新聞の記者から声をかけられてしまった。なんにもしないのに向こうから「志水先生じゃありませんか」と呼びかけてきたのだ。自慢じゃないが、わたしの顔を知っている人など北海道に五人といないと思っていた。だからおどろいたのなんの。これに懲りて、以後はデパートの果物売り場で見切り品を漁ることはやめようと思った。これまでは「わたしゃしがない国民年金暮らしの年寄りですから」という顔をして見切り品を見つけると大喜びして買って帰っていたのだ。(けど悔しいなあ)
 二十五日の映画を午前だけ見て、夜苫小牧からフェリーに乗った。間の悪いことにちょうど台風がきていた。二十五日はその余波がいちばん高かったときで、太平洋は五メートルから七メートルの波という予報が出ていた。できたら大洗まで直行するといちばん楽なのだが、これだともろに高波をかぶることになる。かといってもう一日遅らせると、今度は北海道がまた雪になりそうなのだ。結局まだしも揺れの少なさそうな日本海回りのコースを選んだ。
 それでもけっこう揺れた。二万トンといういちばん大きなフェリーなのだが、航行中はまっすぐに歩けなかった。当然夜もあまり眠れなかった。船は秋田に寄り、新潟に寄り、最後は敦賀まで行く。新潟着は午後三時半。
 秋田でもそうだったが、新潟でも、あきれたことに雪がまったくなかった。北海道の天気を見慣れているからいつの間にか頭のなかが北海道バージョンになっており、当然東北も雪が降っているとばかり思っていたのだ。コースを選ぶ際、フェリーの最短区間である函館、青森航路も考えたのだが、青森は雪になっているかもしれないと思って断念したのである。平地にはないとしても、山にさしかかったら絶対雪になっていると思った。その雪が影も形もなかった。高い山がわずかに白くなっているだけである。それでようやく、本州のほとんどはまだ晩秋であったことを思い出したのだった。
 事実新潟からの関越道でも、周辺に雪はまったくなかった。わずかに関越トンネルの前後で、みぞれらしいものがちらついた程度。気温も二度以下には下がらなかった。しかしむりをして二十五日に帰ってきたのは正解だったのだ。二十六日から雪が降りはじめ、各地とも一面の銀世界になったことをあとで知ったからである。
 家に帰ってみると、落ち葉の山だった。きわめて小さな庭なのだが、白木蓮の木が一本ある。しょっちゅう枝打ちをして大きくしないよう気をつけているのだが、毎年律儀に真っ白な花を咲かせてくれる。この葉っぱが並外れて大きいのである。柏の葉っぱよりまだ大きい。それが庭中に落ちて地面が見えないくらいになっていた。大きな庭なら風情があるといってよろこぶところだが、風に乗って隣近所へも飛んでいるにちがいないから冷汗ものなのだ。もう一方の側に植えてあるカナメモチもてんでに枝をひろげ、梢をのばし、だらしないというか、野放図というか、見られたものではなかった。ふだんの手入れをしないと、わずか二か月でこんなに醜くなってしまうものなのか。今度という今度はわが家がいやになってしまった。売り払って、小さなマンションにでも移ったほうがましかなと、これから本気で考えてみる。そんな家、売っちゃえば、と子どもたちにはふだんからいわれているのである。
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2002年11月20日
なにもない話
 今週はなんにも書くことがないので、そのことについて書こう。文字通り書くことがないのである。というのも、雪の降る季節になったため外に出ていけなくなった。だから身辺に変化がない、書く材料がない、ということになってしまったのだ。
 毎日の生活がおそろしく単調なのである。いまマンションでかみさんとふたり暮らしをしているが、朝起きて食事、すこし仕事をして昼寝、夕飯を食ってまたすこし仕事、そして寝るというその繰り返しなのだ。かみさんがいなかったらそれこそ声を出すこともないのである。
 外に出るといってもせいぜい買い物に行くか、本屋へ行くぐらい。どちらも歩いて十五分で、札幌中心街のデパートや本屋に行ける。便利といえばまことに便利だが、これでは運動不足の解消にもならない。それで週に一、二回はジムに行っている。これが歩いて十分ぐらい。ストレッチや体操、ダンベルなど基礎体力運動を四十分やり、あと四、五十分トラックでウオーキングをする。
 ジムにはサウナ目的で通っているところが多分にある。サウナが大好きなのだ。東京にいたときもサウナ入りたさで池袋のジムへ通っていた。札幌にきてうれしかったのは銭湯にサウナがあることだ。ほぼ標準装備で、たいていの銭湯にサウナがある。湿式、乾式いろいろあって、湯銭が三百六十円。これが楽しくてしばらくの間は車であっちこっち銭湯遍歴をしていた。
 映画にもときどき行く。これも歩いて十分足らずのところにシネマコンプレックスがあり、土曜日なんか夜の九時すぎからのこのこ出かけていって最終回に間に合う。シニアは千円。しかし山とかハイキングとかに行くとこのシニア連中がわがもの顔でのさばっているのに、映画館ではまず姿を見かけないというのはどういうわけだろう。たしかにこのごろの映画はトリッキーなものばかりで味がないのはたしかだが。
 最近見た映画は「カルメン故郷へ帰る」と「たそがれ清兵衛」。カルメンは日本初の総天然色映画、わたしが中学二年のときの作品である。特別上映があったから見に行ったもので、トーキーがかすれて聞きづらかったけど十分楽しめた。映画中で田舎の小学校が出てきたが、ズックをはいているのはほんの少数、下駄、草履、はだしといろいろあって、あらためてあのころの時代というものを思い出した。それにしても料金五百円で、観客がたった六人というのはひどかった。
 あと唯一の時間つぶしは本。本にもよるが、新書の類なら週に五冊は読んでいる。だから読むものがない、ということがしばしば起こる。小説はあまり読まない。頭の仕込みをしなければならないから小説を楽しんでいる余裕がないのである。
 図書館がもっと充実していたら足繁く通うんだが、札幌の中央図書館がかつてよく利用していた豊島区の区立図書館に遠く及ばないんですね。加えて友人、知人がほぼゼロ。したがって東京から編集者が来たとき以外、飲みに行ったり食いに行ったりすることもない。よく行く喫茶店が数軒あるだけ、行きつけの飲み屋なんてものゼロである。
 雪が降りはじめてわずか半月でこんな暮らしになってしまった。本格的に積もって動きが封じ込められてしまったら、もっと書く材料がなくなってしまうだろう。ホームページなんかつくったおかげで、今年の冬は苦しみそうだ。いちばん困っているのはわたしなんですぞ。
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2002年11月4日
[とうとう雪の季節になった
 先週も二日出かけていた。
 はじめは月曜日。東京から編集者がやって来たので千歳へ出迎えに行った。途中支笏湖経由で行ったのだが、その前の週は紅葉が真っ盛りだったのにそのときはもう終わっていた。そればかりか途中から雪が降りはじめた。周囲がみるみる真っ白になってきたときはあわてた。道路までシャーベット状になってきたからである。
 このとき前を広島ナンバーの車が走っていて、わたしたちと同じくらいの年配の夫婦が乗っていた。広島ナンバーの車が悠々と走って(よそ目にはそう見えた)八王子ナンバーの車がどうしておたおたするんじゃー、と意地をはってこっちも走ってしまったが、もうすこし強く降っていたら引き返していたかもしれない。雪道での運転経験がまったくないからである。もちろん車は二輪駆動だし、タイヤも夏タイヤ、冬タイヤなんか持ってもいないのだ。
 例年十月末には車を東京へ持って帰っていた。今年はそれを一か月遅らせた。十一月も何回か雪は降るのだが、まだ根雪にはならないから数回ぐらいは乗る機会があるだろう。今年の夏が天候不順であまり遠出できなかったため、その埋め合わせをしようと欲張ったのだ。
 その後数日ぐずついたものの、木曜日はからっとした晴天になった。それで急遽旭川の旭山動物園というところへ出かけることにした。
 動物園である。
 ここ、北方系の動物が充実していて、見せ方に工夫をこらしているユニークな動物園である。今年はホッキョクグマの檻のなかに観察ボックスができた。檻の真ん中に電話ボックス大のドームがにゅっと突き出していて、人間がそこから顔を出してクマを間近に見ることができるのだ。おっかなびっくりのぞいている写真が新聞に出て、これは一度行かなければなるまいと思っていた。
 高速で行けば簡単なのだが、里の紅葉を見たかったから下を走った。道を山寄りにとり、岩見沢から美唄、砂川、歌志内と北に上って行った。すると前の夜、札幌では雨だったのが北のほうへ行くにつれ雪になってきた。
 ふだんからできるだけ国道を走らないようにしている。少々遠回りになっても農道があれば必ずそちらを通る。今回もいつものように枝道ばかり選んで進んでいた。すると山のなかに入るとあっという間に二十センチぐらいの積雪になった。明かに除雪した跡がある。その後に降った雪が車線の中央にまだ残っている。交通量はきわめて少ない。四、五分走ってやっと対向車に出会うようなところである。この先がどうなっているかわからないから、薄気味悪くてしようがない。どこかに突っ込みでもしたら、助けを呼ぼうにも携帯電話すら持っていないのである。どうしよう、どうしよう、といいながらこわごわ進んでいった。
 一方で雪の中で見る紅葉がなんとも新鮮で美しかった。まさに目が洗われるような思い。赤や茶色、木によってはまだ緑の葉が残っている季節に、地上のほうはもう雪で白一色になっているのである。こういう色彩の強烈なコントラストははじめての経験だった。まさに北海道ならではの光景。例年十月で車を手放していたのをしまったと思ったものだ。今年はぎりぎりまで乗って、晩秋から初冬の北海道の風景をこころゆくまで見届けようと思っている。
 おかげでこの日は旭川の近くまで行ったものの、その手前の深川から引き返してしまった。途中の時間がかかりすぎて、三時までに動物園へ着くのが不可能になってきたからだ。それで来年また出直そうということにした。それで正解だった。十一月からの動物園が午後三時には閉館になってしまうのをきょう知ったところである。冬の北海道は日が短い。午後の四時には暗くなるのである。
 この日、車の走行距離が二万キロを超えた。昨年の五月に買った車だが、一万キロは昨年十月、東京へ持って帰るときに超えた。今年も正味六か月で一万キロ走った計算になる。ずいぶん乗り回しているみたいだが、乗っている本人はそれほどの自覚がない。一日出かければ三、四百キロにはなってしまう。やはり北海道はひろい。
 車がなくなってしまう冬はクマみたいに冬眠します。

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2002年10月29日

 北海道の秋は短い。昨日の山は今日ならず、紅葉が数日で色あせてしまう。秋をこころゆくまで楽しみたかったら、それなりの努力をしなければならない。つまり遊びをなによりも優先させなければならない。
 先週は二回、日数にして三日出かけた。今週もそのつづきで、月曜日は朝から出かけるつもりをしていた。ただその前に、メールを見ておこうと軽い気持ちでのぞいてみた。なんと、産経からのメールが入っている。
「本日が締切りです……」
 ぎゃっと叫んでしまった。完全に忘れていたのである。
 というより、もっと先だと思っていた。今日が何日かも忘れて遊びまわっていたから、まだ月の半ばだとばかり思っていた。もう二十一日だったのである。新聞社のほうも、いつもだと一週間前に確認のメールをくれるのだが、今回は北朝鮮から拉致家族の帰国という大ニュースがあったため、それに追われて連絡を忘れたようなのだ。もちろんいちばん悪いのは締切りも忘れて遊びまわっていたわたしであります。
 たちまち予定は中止、泡を食っての仕事となった。しかしなんの用意もしていなかったのだから、急にさてといったって、そう簡単に書くことがひねり出せるわけはない。困り果てて思いついたのが、次回の近況報告用にするつもりだったこの原稿である。つまりこれを流用して、新聞原稿にしてしまったというわけ。だって、もう下書きがしてあって、あとは手直しすればいいだけ、いちばん簡単だったんだもん。
 むろん知らん顔をしていたらばれる気遣いはなかったのだが、しかしそうなると今度は近況報告に書くことがなくなってしまう。それでなくとも今月は連載小説と、自作を語るの原稿が滞っていて心苦しいのである。しかももう月末、今月はこのまま近況報告だけでお茶を濁し、そちらはサボらせてもらおうと考えていたから、その近況報告までなくなってしまうと、これはちとまずいんでないのと、さすがに思うのである。
 ということで困りはてたあげく、ずうずうしくもその原稿の一部を、そのままここへ二重掲載してしまうことにした。まことにもの書きにとっては許しがたいことだが、自分のことだから簡単に許してしまうのだ。ごめんなさい。今月は多分これでお終いです。来月はちゃんと仕事しますから。

 
[気分は縄文人]
 これまでブナの実の実物を見たことがなかった。写真では知っている。しかし秋のブナ林を何回となく歩いているにもかかわらず、これまで実らしい実にはとうとうお目にかかれなかった。というのも、ブナは毎年実をつけるわけではないからである。それが今回、はじめて現物を見た。そればかりか大量に採集できた。うれしくてうれしくて、最近これくらいうれしかったことはない。ブナの実は食べられるのである。食べられる木の実をこれまで知らなかったのだから、これはもうわたしの恥でなくてなんなのだ。積年の課題がやっと果たせたのである。
 先週、紅葉見物が目的で一泊旅行に出かけた。と書くといかにも遊んでばかりいるようだが、じつはその通り、遊んでばかりいるのである。あそびをせんとや生まれけむ、たわぶれせんとや生まれけむ、人生有限、自然は無限、そろそろ残り時間を数えなければならない年になってみると、仕事よりもなによりも遊びが大事になってしまうのだ。
 とまあ、遊びに行くときはその正当な理由を百でも二百でもたちどころに挙げてみせられる。仕事ができない理由ならさらに千や二千は挙げてみせよう。これ、いちばんの特技なのである。
 今回は後志の賀老渓谷というところへ出かけて行った。日本の滝百選に選ばれている滝があり、ブナの原生林があることはまえから知っていたが、人里から数十キロ山のなかへ入ったところで、当然ヒグマの生息地なのである。したがって単独ではなかなか行く気になれなかったところだ。
 さいわいいまは紅葉シーズンである。いまならだれか来ているだろう、というので出かけたのだった。それでも国道を逸れるとたちまち人家がなくなり、あとはひたすら山道となる。途中一軒宿の温泉がぽつんとあるきり、ほかはなんにもない。そして宿から先は、道が一気に細くなり、うねうねと曲がりくねりながら山のなかを登っていく。一応舗装はしてあるが、すれちがいもままならない狭い道である。途中出会った対向車は一台。それでも人がいたことにとりあえずほっとした。
 ところがなぜか、標高五百メートルもあがったところで、地形がにわかに平らになってきた。林のなかを真っ直ぐな道が一直線に走っている。それもゆうに一キロ以上ある直線だ。人跡未踏のこんな山の中で、まさか時速百キロでぶっとばせる道に出っくわそうとは思ってもみなかった。しかもひとつ曲がると、また直線道路。なんと三本もあったのである。いやーさすがは北海道、懐がひろい。
 三本目の直線道路が終わりきらないところに駐車場があり、車が一台止まっていた。そこが滝への出発点だった。とにかく一台でも車のいてくれたのがうれしくて、ほっとしながら車をおりた。するとそこへまたつぎの車がやってきて、若い男女がおりてきた。これで道連れまでできたことになる。がぜん心強くなって歩きはじめたのだが、そのときになってようやく、山の尾根筋から南側が一面のブナ林となっているのに気がついた。
 賀老渓谷がある島牧村の隣には黒松内という町があって、じつはここが日本のブナの北限になっている。これまで二回訪ねているが、こちらは多摩丘陵に似たなだらかな地形である。一方の賀老渓谷は、大きな滝があるくらいだからかなりの山奥、地形も険しい。山の尾根から滝まで、じぐざぐの道を二十分ほど急降下しなければならない。その途中がすべてブナ林だったのである。多分対岸もそうだったろうと思うが、それが紅葉期を迎えていっせいに色づいていた。
 もちろん滝は見てきましたよ。滝は滝。それだけのことである。
 問題はブナである。今年がブナの実のなり年だということはすでに活字から情報を得て知っていた。だからひょっとするとと思っていたのだが、その期待は間もなく的中した。待望のブナの実がついに目の前に姿をあらわしたのである。それもふんだんに、これでもか、これでもかといわんばかりに。うれしいなんてものじゃない。狂喜乱舞、目の色を変えて拾い集めた。
 ブナ林というのは森の極相林なのだそうである。つまり日本の森が最後に到達する姿がブナ林なのだ。かつては日本の国土の大半がこのブナでおおわれていたものと思われる。そしてその実は、動物のみならず人間にとっても大きな恵みだった。縄文人だって今回のわたしと同じように、夢中になって拾い集めたにちがいないのである。
 このとき、あとから来た行楽客がそばを何人か通り抜けたが、何を拾っているのか声をかけてきたのはみな年配者だった。ある老人はわたしにいわれて実際に一粒食べ、これは粉にするとうまいかもしれないといった。帰って調べてみると、事実かつては粉にしたり、油を搾ったりしていたらしい。ブナの実をソバグリと呼んでいたところもあるのである。いまのところ煎ったものしか食ってないが、ごはんのなかに焚き込んでみてもうまいのではないかと思っている。
 なおそのときの老人夫婦は、札幌からバンに荷物を積んでキャンプに来ていた。どう見ても七十すぎ、それが四時ごろからはだれもいなくなる山のなかでキャンプするという。そしてあすは、ここからまだ奥にある狩場山という標高千五百メートルあまりの山に登るのだとか。おそらく最初から最後まで、ふたりきりの登山行になってしまうはずだ。平日の登山者などまずいないところなのである。
「クマがいるんじゃありませんか」
 と心配して聞いたら、
「クマぐらいいるわな。わたしゃこれまで五回出会ってるが」
 とこともなげに答えたので恐れ入った。いやー、さすがは北海道、懐がひろい。

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2002年10月16日
ときにはフルーツソースの話でも
 ニセコの道の駅でヤマブドウを売っていたから買ってきた。生来の果物好きにくわえ、子どものころ刷り込まれた飢餓感というトラウマのせいで、いまでも自然のものというと食えるものにしか目が行かない。花にはなんの興味もないのである。草木なら実だけ。それも食えるか、食えないか、どちらかしかない。その分類法でいうと、ヤマブドウは食える木の実の代表格。秋の山へ行くと、アケビやクリとともに、どこかにないか無意識のうちにきょろきょろしてしまう。
 ところが山菜ブームのせいで、こういう食える木の実を最近はまず見かけなくなってしまった。そのはずである。まさかヤマブドウまで売られているとは思いもしなかった。それもジャガイモやニンジンが一袋百円だったのに対し、ヤマブドウは一パック三百円もする。山菜取りがプロ化してしまうわけである。こういう連中が山の作物を根こそぎにし、山を荒廃させているんだ、と力んだってしようがないか。そういうものを買うやつがいるからいかんのである。
 だいたい野生の木の実など、そんなにうまいものではない。要するに季節の恵みだからありがたいだけで、味でいえば栽培もののほうがはるかに美味だし、果肉の部分もずっと多い。
 ヤマブドウも同じである。実は小さいし、すっぱいし、おまけに種が一粒にふたつ、しっかり入っている。その種が実に比べてばかでかい。そのまま食えばひと房で十分といいたくなる代物なのだ。それにもかかわらず買ってきたのには深いわけがある。ひょっとすると、いいフルーツソースになるかもしれないと思ったからだ。ヨーグルトにかけるソースのことである。
 ヨーグルトは以前からよく食っている。手軽にぱっと食え、そこそこ腹を満たすには最適だからだ。都内に仕事場を持っていたころは、食事代わりに五百ミリリットル入りパックをひとつ、一回に食っていた。最近はさすがにそんな無茶食いはしなくなったが、その代りソースにこだわりはじめたというわけである。
 昨年のこと、郷里の妹から大量にヤマモモを送ってこられて困ったことがあり、残ったものをジャムにした。それをヨーグルトにかけて食ってみたところ、あきれるくらいうまかった。いまだかつてこれにまさるフルーツソースにはお目にかかったことがないというくらい極上の風味だったのだ。
 ヤマモモという木の実を食べたことのある人は少ないと思うが、日本でも西のほうにしか自生しない常緑樹の果実である。東京ではところどころ街路樹として植えられている。しかしこの木にはオスとメスがあり、実はメスにしかならない。街路樹には当然オスの木が使われるから、実を見かける機会は少ない。たとえ実を見かけても、これが食べられると知っている人はもっと少ないだろう。
 梅雨のころ、ヤマモモは木いっぱいに赤黒い実をみのらせる。モモとは名ばかり、クワの実のような、イチゴのような、大きさも小ぶりのイチゴくらいしかない地味な実である。味は甘酸っぱく、なかにアズキ大のかなり大きな種が入っている。それほどうまい果実ではないし、日保ちもしないから、まず店頭には出てこない。ところがわたしの郷里では、これを初夏の味覚としておおいに食べるのだ。スーパーでもイチゴやブドウとともに堂々と売られている。それでなにかのおり、ヤマモモを食いたいといったのを妹が聞きつけ、十数パックを一度にどかっと送ってきたのだ。きわめて安い果実なのである。
 生で食うだけなら一パックもあれば十分。それをこんなに大量に送ってきたってこっちはたったのふたり暮し、非常識にもほどがあるといって、はじめのうちは悪態をついていた。かといって腐らせるのももったいない。いっそジャムにしてみようか、ということで煮てみた。ジャムならほんとは種を取らなければいけないのだが、自家用だからそんな面倒くさいことはしない。とにかく砂糖で煮つめ、味を整えるため最後にレモンをたらした。すると水っぽい、でき損ないのジャムみたいなものができた。水分の多い果実だから、水を一滴も加えなくても水が出てしまうのだ。
 どう見てもパンには向きそうもない。それでヨーグルトにかけて食ってみたのだが、ひとくち食って飛びあがった。絶妙の相性だったのだ。さわやかな酸味と、風味、しかもピンク色のじつにきれいな色がつく。種が面倒でいちいち吐き出さなければならない欠点はあるが、これまで食べてきたフルーツソースなんて、あれはいったいなんだったんでしょうね、というくらいの絶品だった。以来ブルーベリーには見向きもしなくなった。ヤマモモが横綱なら、ブルーベリーなどせいぜい十両、まるで格がちがうのである。
 それで今年はまえもって頼んでおき、さらに大量に送ってもらった。あいにく今年はなり年ではなかったが、それでも二か月というもの、毎日楽しんだ。いまではわが家の食生活に欠かすことのできない、年に一回の定番フルーツになってしまった。
 ただしそうなってくると、今度はもっと欲がでてくる。ヤマモモに匹敵する果実がほかにもきっとあるはずだ、という欲である。昨年はガンコウランという実で試してみた。ガンコウランというのは高山の岩礫地に生えるスギナみたいな植物である。これが秋のはじめにブルーベリーのような黒い実をつける。やはり甘酸っぱい味だ。
 ニセコのイワオヌプリという標高千百メートルあまりの山へ登ったとき、頂上近くの礫地にこのガンコウランが見渡す限り群生していた。まさに熟れどきの黒い実をつけている。大喜びして山なんかそっちのけ、かき集められるだけかき集めた。ほんの二、三十分で、むかし風にいえば一升くらいも取れた。それを持ち帰ってさっそくソースにしてみた。
 結果はというと、残念ながら期待したほどの味ではなかった。ガンコウランにもごく小さな種があるのだが、これが口のなかでざらついて意外に味覚の邪魔をする。さらに風味もいまいち、合格だったのは色くらいなもので、総合力ではあきらかにブルーベリーに劣った。
 それを今回はヤマブドウで試そうと思ったわけである。酸味があって水分もあるから、これは絶対ものになると思った。で、さっそく小鍋でぐつぐつ煮込んでみた。ふだんは台所に立たないくせ、こういうときだけはいそいそと働くのである。せっせとあくを取り、砂糖を入れて、味を加減する。種が多いから今回は裏ごしもしなきゃならない。といったって男のやることだから網杓子ですくい、木のへらでごしごししごいただけ。そうしてできた液体をもう一回煮つめ、最後にレモンをしぼり入れて完成だ。ふだんタカノのフルーツソースを買っているのだが、この瓶の四分の三くらいの分量のソースが得られた。タカノのソースが四百円だから、まあ値段からいっても妥当なところである。
 で、すぐさま試食。その結論はというと、これまた残念ながら期待はずれ。味、風味ともいまいちで、ブルーベリーには遠く及ばなかった。ただし色だけは強烈。小匙一杯たらしただけでヨーグルトが赤黒く染まってしまうくらい鮮烈な色を持っている。いいんだ、いいんだ、これはおそらくポリフェノールだろうから、なんに効くのかよく知らないが身体にはきっといいにちがいない。ということで、いま、毎朝一滴のヤマブドウソースを楽しんでいるところである。
 グミ、ユスラウメ、スグリ、サンザシ、クロマメノキ、ほかにもまだ試してみたい実はたくさんある。売っているところがあれば買いたいのだが、どなたか手に入るところを知りませんかね、というのが今回の落ちであります。


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2002年10月7日
豊平川で鮭を見た
 いま住んでいるマンションは札幌市内を二分して流れている石狩川の支流豊平川に面している。あいにく方角が東向きなのだが、その代わり目の前をさえぎるものはなにもない百八十度の視界が開けている。十二階なのだ。天気さえよかったら大雪山をはじめ、十勝連峰、夕張山塊、日高の幌尻岳、北海道の屋根がすべて望める。季節変化がいながらにして一望できるわけで、この眺望にはいつも満足している。
 豊平川はこの辺りで河口から四十キロぐらい上流になる。川幅が百数十メートル、両岸の河川敷は公園として整備され、サイクリングロードやパークゴルフ場などがあり、ベンチやトイレもあって休日はそこそこ市民でにぎわう。わたしもときどきは歩いてみる。
 ときどきである。
 なぜかというと、河川敷きというのは両岸の土手が視界をさえぎるため、穴の底を歩かされているみたいでいまひとつ爽快さに欠けるのだ。これが土手だったら視界も開けてはるかに気持ちがいいのだが、土手の多くは車の専用道になっている。いちばんいいところを車が占有しているわけで、道だか市だかのそういう根性は罵倒したくなる。
 越してきたときはひろびろとした川原を見て、雪が降ったら存分に歩いてやろうと張り切ったものだ。雪の少ないところで育ったから、雪が降るとそれだけでうれしくなってしまうのである。真っ白な雪原に足跡をつけながらどこまでも歩いてみたい。子どものころからのその夢が豊平川の河川敷でかなえられると思ったのだ。それで札幌暮らしをはじめてすぐ、ひざの上まである深い長靴を買ってきて雪に備えた。待ちに待ったその雪が降り積もったある夜、勇躍出かけて行った。いざ行かん雪見に転ぶところまで、のつもりである。
 夜である。人に見られたら恥ずかしいから夜である。
 なんとわずか数分で頓挫してしまった。無知まるだしもいいところだった。腰まである雪がどんなに歩きにくいものか、まったく知らなかったのである。ロマンも感傷のかけらもありはしない。数十メートル歩いただけで思い知らされ、キャンキャンと悲鳴をあげながら逃げ帰った。以後二度と雪のなかを歩いてみたいなどとは思わない。真新しい長靴はたった一回はいただけで以後埃をかぶっている。
 豊平川には鮭が遡上してくる。毎年秋になるとそれがニュースになるから、一度その現場を見てみたいと思っていた。橋の上を通るたび、運よく見られないか、必ず足をとめてながめたものである。しかしこれまで一度もそれらしいものを見たことはなかった。産卵を終えて死んだ鮭ならそこらの川原にいつも打ち上げられているのだ。
 考えてみると当然のことだった。豊平川にもどってくる鮭は年間数千匹という単位にすぎない。一日あたり十数匹、一時間に一匹通過すればいいほうという計算になるのだ。これではよほどの幸運に恵まれないかぎり目撃するのは不可能だろう。
 先日、あまりにも天気がよかったし、暖かくもあったので、四時をすぎていたが散歩がてら河川敷を歩きにいった。持ち物は双眼鏡、つまりバードウオッチングが目的だった。河川敷というのは鳥の種類が少なくてバードウオッチングにはそれほど向いていないのだが、それでも春にはヒバリを見かけている。巣も見つけた。
 その日も川原の木立をねぐらにしているムクドリの大群が、日暮れとともに帰ってきたところへ遭遇した。ムクドリというのは群れで行動し、それが枝もしなうくらい何百羽も集まっておしゃべりしながら夜を迎えるからまことにやかましいのである。
 距離にして四キロ、一時間ばかり川下へくだったところでそろそろ引き返そうかと思いはじめたときだった。なにげなく川面に目をやると、浅瀬でなにやら生き物らしいものがのたうっていた。はじめはヌートリアのようなけものかと思った。しかしよく見ると黄色くなった背びれと尾びれが出ている。なんと、鮭だったのだ。こんなに簡単に見つかるとは思ってもみなかったから、びっくりしたというより拍子抜けした。状況から判断すると上流へ上ろうとしてもがいているところみたいだったが、背びれや尾びれが水上に出るほどの浅瀬をむりやり突きすすんでいるとは思いもしなかった。五、六メートルも右に寄ればもっと深いところがあるのだ。それがわからないのか、流れの強いところへ突っこむ習性があるのか、よりによっていちばん浅いところを上ろうとしている。そして最後の数メートルが乗り越えられなくて苦労しているのである。おい、もうちょっと右へ寄ってみろ、と人間なら声をかけてやるところだ。やきもきしながら見ていた。
 ほかの鮭はいなかった。一匹のメスに何匹ものオスがつきしたがって遡上する、とばかり思っていたから気をつけて周囲を見てみたのだが、どうみても一匹しかいない。ひょっとするとメスにはぐれたさびしいオスなのか。それにしても映像で見る産卵寸前の鮭が、背びれや尾びれがすり切れてぼろぼろになっているのがはじめて納得できた。こういうところを上ってゆくようではすり切れてしまって当然なのだ。
 三十分以上かかったと思うが、それでもまだ上れない。そのうち日が落ち、夕焼けになって、みるみる暮色が深まってきた。日が落ちるといまの札幌はあっという間に寒くなる。この日は長袖シャツの上にもう一枚シャツをはおっていたのだが、それでもつらい気温になってきた。よっぽどもう帰ろうかと思ったが、鮭がもたもたしているから行くに行けない。ふるえながら見ていた。
 昨年は積丹半島の古平というところで遡上寸前の鮭の群れを見ている。たまたま通りかかったとき、古平川の河口付近に釣り人が大勢群れているのに気づいた。遡上してくる鮭はだいたい取ってはいけない決まりになっている。現在北海道でだれもが自由に鮭を釣っていい川はたった三本しかない。ほかはぜんぶだめ。ただしひとつ裁量があって、河口から何十メートルか何百メートルか離れたら取ってもいいことになっている。だから鮭の上ってくる川ではシーズンになると大勢の釣り人がやってきて、禁止区域ぎりぎりのところまで近寄っていっせいに竿を出すのである。
 そのときは河口から一歩川へ入ったところで、数百の鮭がぐるぐる回っているのを至近距離からながめることができた。海水から汽水域に入ってきたところで、真水に適応するためにからだを慣らしているところだったのだ。こういう鮭の姿を見ると、そうまでして故郷の川へ帰っていこうとする習性にことばを失ってしまうほかない。なかにはめんどうくさいからやめた、というずぼらな鮭がいていいと思うのである。
 もがいている拍子にからだが横へ流れ、深みに入って、やっとのことで鮭が上流へ姿を消したときはもう薄暗くなっていた。そしてわたしの指先は寒さでしびれて感覚がなくなろうとしていた。
 で、ほうほうの体で帰ろうとしたとき、まるで待っていたみたいに今度はつがいのアオサギが飛んできたのである。そして浅瀬の中を歩き回りながら、えさを探しはじめた。サギはだいたいがじっとしていることの多い鳥で、とくにアオサギときたら哲学者みたいに沈思黙考、動かざること山の如しという鳥である。アオサギが魚を取る瞬間をまだ見たことがない。それが活発に動き回っているものだから、これまた帰るわけにいかなくなった。寒さは寒し、ひもじいし、かといってせっかくのチャンスを逃がすのも惜しいし、家に帰ったってどうせ暇なのだからと思い直してここは我慢の一手、また腰をすえたのだった。
 結局その日は完全に暮れ落ちた河川敷をひとりとぼとぼ歩いて七時前に帰ってきた。アオサギの夫婦は人を散々じらしておいて、妙な人間が見ているから落ちつかないとばかり、手に手を取ってどこかへいってしまった。魚は取れずじまい。わたしはなんにも見ずじまい。帰ってきて熱い湯に手を浸してないとしばらく指先の感覚が戻ってこなかった。出かけるときは防寒着を忘れずに、この間ウトナイ湖で学んだ教訓がいまだに身についていないのである。


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2002年9月15日
六泊七日の旅を終え 
 どうもごぶさた。だいぶ間が空いてしまいました。べつに遊んでいたわけじゃありません。大まじめに仕事していた。なんせ七月に十枚しか書いてない人間が、八月は百枚の原稿を書いたのだから。さよう、心を入れ替えたのだ。なんという勤勉。だれも誉めてくれないからここはしっかり自分を評価しておきます。
 といっても毎日新聞の連載がはじまるため、その書きだめをしておかなければならなかったもの。毎度いうように連載という形式が苦手で、毎回途中で泣きたくなったり絶望的な気分に襲われたりしている。自分のいちばんの欠点である構成力のなさがもろに出て、思うような方向へ話が進んでくれなくなってしまうのだ。こういうとき、作家によってふた通りに分かれてしまうものらしい。つまり興がのってきたととらえてどんどん突っ走ってしまう人と、どっちらけてしゅんとなってしまう人と。わたしの場合は明らかに後者。あとで単行本にするとき塗炭の苦しみを味わうのである。
 それで今回はその轍だけは踏むまいと、連載がスタートするまでにある程度書きすすめ、全体のアウトラインが見えるところまで進行しておこうと、七月じゅうに夏休みの宿題を全部片づけてしまうみたいな殊勝な心がけで早めにとりかかったわけです。当初の構成では十三回目に最初の山場を迎えるから、そこまで書いてみるつもりだった。のちの展開も、その段階で見えてくるだろうと。それでほかの仕事(たとえばこのホームページ)は全部後回しにして、八月まるまる一杯をそれにあてたのである。
 ところが十回分ほど書いたところで、連載の開始が一か月のびることになった。はじめの予定では十月からの開始だったが、現在連載中の作品がすこしのびそうなので十一月からということになった。それでほっとした途端、それ以上書きつづけることができなくなってしまった。遠大な構想も、悲壮な決意もたちまちにして腰くだけ。だって、だれだってそうでしょう。試験が中止になって、それでも勉強をつづけようなんて思う人間なんかいやしない。
 で、新聞連載はとりあえず置いておいて、つぎの仕事にとりかかることにした。それが東京へ出てきてホテルでカンヅメになるという仕事。カンヅメになるのが仕事じゃない。カンヅメになって仕事するのである。これまで雑誌に掲載してきた十二本の短編を一冊にまとめるための推敲作業だ。それが九月六日から一週間。つまり六泊七日のホテル生活となった。スポンサーは集英社。閉じこもったホテルが山の上ホテル。そう、むかしから作家がカンヅメになるところとして有名なホテルであります。
 三十数年前、ライターをやっていた時代に、知り合いの漫画家にここで何回か仕事をしてもらったことがある。つまりカンヅメをさせる側の経験はそのころからあったわけで、小説を書きはじめてからも、このホテルでは何回か仕事をしている。しかし一週間も滞在したのははじめてだった。
 だいたいどの作家でも、はじめて山の上ホテルで仕事したときは、ああ、おれもつい山の上ホテルでカンヅメにされる身になったかと感涙にむせぶものらしい。しかし感激は感激、仕事は仕事、両者はまったくべつであって、相互にはなんの関係もない。つまり缶詰にされたが最後ノルマだけは果たさなければならないという義務関係が厳然として成立するのだ。これがけっこうハードなのですよ。いちんちじゅう部屋に閉じこもってパソコンのキーボードを叩いているだけ。Tシャツ一枚にパンツ姿。シャワーもろくろく浴びなきゃ、ひげも剃らない。面白くもおかしくもありやしない。
 そりゃたしかにご馳走は食える。しかしホテルのめしというものは、ときたま食うからご馳走なのであって、こんなもの、毎日毎回食ってごらんなさい。三日もたてばうんざりする。サトイモのみそ汁が飲みたい、ほうれん草のおひたしを食いたい、とそればかり夢見るようになる。一刻も早くそういう生活を取りもどしたいから、わき目も振らず、せっせと仕事をするのである。つまりカンヅメにしてもらうというのは、自分から志願して有期刑の囚人になるということで、早くシャバへもどりたい一心で仕事をすることに他ならない。
 じゃなぜそんなにまでしてカンヅメにされるんだ、といわれるかもしれないが、そういう状況でもつくってもらわないと、なかなか自分を追い込めないからである。とくにわたしみたいに、仕事しないときがいちばんしあわせ、という人間は自主努力をさせたらいつまでたっても埒が明かないのは目に見えている。それで納得づくで拉致されて、強制労働をさせられるのである。けっして嬉々としてカンヅメになっているわけではありません。
 ホテルでの仕事は邪魔は入らないし、寝食には困らないし、時間の使い方も自由、そういう意味ではたしかに仕事に集中できる。テレビのBS放送で黒澤明の「七人の侍」を放映していたから三時間半きっちり見ちゃって、ああ、このころの日本人はじつにいい顔をしていたなあ、とつくづく感服してしばし物思いにふけった、なんてこともなくはなかったけれど、最後はへろへろに疲れはてて仕事を終え、ほうほうの体で逃げ帰ってきた。
 この作品集、これから本づくりに入りますが、出版時期、タイトル等は未定。版元は集英社です。

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2002年8月5日
寒さにふるえる夏もある
 千歳まで車で行く用があったので、ついでにまえから行きたいと思っていたウトナイ湖へ足を伸ばしてきた。ラムサール条約に登録されている野鳥のサンクチュアリである。
 わずかばかりの遊歩道と、ネイチャーセンターがあるくらいで、人工的な施設はほとんどない。それだけ野鳥にとって環境のいいところ、ということになるのだろうが、結論を先にいうと、条件のいい日にまたあらためて来ることにし、とりあえずその日は引き揚げてきた。湖だけでなく林や草原もあるから、木々の葉が少ない秋か春のほうが野鳥観察にはいいのである。というのは負け惜しみ、じつは寒くて、野鳥観察どころではなかったのだった。
 昨年は気温が一度も三十度に達しなかった札幌も、ことしは七月三十一日に二回目の真夏日を記録した。八月一日が二十九度。出かけたのはその翌日の二日のことだ。天気予報ではすこし気温が下がるとかで、最高気温二十六度と報じられていた。とすれば、たとえもしそれ以下に気温が下がることがあったとしても、まさか寒くなることまではないだろう、というのが北海道の人間ではないわたしの考えることなのである。なんせ八月二日のことですよ。それがふるえあがるくらい寒くなってしまうのだから北海道の天候は奥が深い。
 ちなみにこの日の実際の最高気温は、札幌が二十二度、苫小牧が十七度、いずれも天気予報の予測を大きく下回っていた。ウトナイ湖は苫小牧の郊外にある。だから十七度よりもっと低かったはずで、車の気温計はだいたい十四度から十五度を示していた。しかも風が強かったのだ。当然体感温度はもっと低かったわけで、吹きっさらしのもとでは寒くて野鳥の観察どころではなかったのだった。
 ところがそのとき、池のほとりで出会ったおそらく道内から来たと思われる人たちは、ちゃんと長袖シャツを着て、なかには上着まで着ている人もいて、さすが北海道人とその用意周到さに恐れ入ってしまった。道内の気温変化が日によってがらっとちがうことを、この人たちは生活体験として知っているのである。だから外出するときは、どんな天候になっても対応できる備えがふだんから身についているのだ。
 わたしのほうも札幌で暮らしはじめて三年、北海道のことならほぼマスターしたつもりでいるのだが、いまだにこういう失敗があとを絶たない。この日も半袖ポロシャツ一枚という格好で出かけていた。
 六月に利尻、礼文へ行ったときもひどい目にあった。日中の最高気温が九度、おまけに十メートルを超える強風が吹き荒れ、利尻へ着いた日は朝方あられまで降っていた。ふつうの寒いという領域はとうに通り越している。むろんそういうこともあろうかと思って、こちらだってそれなりの備えはして出かけているのだ。それがフリースの上着一枚くらいでは、とてもたりなかったということである。手袋も軍手ではなく、ウールの手袋が必要だった。タオルをマフラー代わりに首へ巻き、やっと寒さをしのいだのだが、いま写真を見ても、われながら情けないぶざまな格好をしている。
 ちょうどそのころ、十勝岳では本州から来た中高年の登山グループが吹雪で遭難、凍死者を出している。十勝岳なら昨年登っているが、天気さえよければ三、四時間で登れるハイキング程度の山なのだ。
 さらにその数週間後、今度はトムラウシ山でやはり遭難者が出て、このときは二名亡くなっている。トムラウシにはまだ登っていない。というのもこの山はアプローチが長く、最低二泊の日程はみておかなければならず、それでも相当な強行軍になるとわかっているから、自分たちの手にあまる山だと思ってあきらめているのである。
 今回の遭難者がどの程度の山のキャリアの持ち主か知らないが、そのまえの年に羊蹄山で亡くなった人も、やはり本州からきた登山者だった。いずれも中高年で、旅行会社が企画した日本百名山の登山ツアーの参加者である。わたしは箱根駅伝と日本百名山は百害あって一利なしと思っている人間だが、ここはそれを論じる場ではないからとりあえずこれ以上はいわない。
 問題は本州の人間には、北海道の気温、気候の激変が、どの程度のものなのか、なかなか想像できないということだ。ツアーの手引書を見ると、気温が下がることもあるから暖かい着替えを用意するようにと必ず書いてある。しかしそれがどれくらい下がるものなのか、真夏でもちょっと天候が変わればたちまち真冬になってしまう、ということは本州の人間には頭でわかったつもりでも、とても実感としてはわからない。それでなくとも山行きには、すこしでも荷物を減らしたいのが人情だ。邪魔になるだけかもしれない重いセーターを、事実ほとんどは着用しないで持って帰る羽目になるもう一枚を、あえて追加する気力はなかなか出てこないのである。
 昨年オロフレ山というところへ登りに行ったおりのこと。このときもガスが出たうえ気温が低く、寒くてたまらないので登るのをためらっていた。するとそこへ地元ナンバーの車が何台か到着し、十数人からなる登山グループがおりてきた。そして元気に登りはじめたのだが、その装備がなんとも完璧だった。半袖シャツ一枚という軽装でのこのこやって来た自分たちがなんとも恥ずかしく、その場で尻尾を巻いて逃げ帰ったことだ。
 北海道の天気予報は当たらない。天候も変わりやすく、それにもまして気温の分布差がはなはだしい。だから出かけるときはそれなりの覚悟や用意が絶対に必要である。ということがわかっていながら、いまだに同じ失敗を繰り返している。本州からやってくる中高年はおそらくもっとわかっていないはずで、百名山の名に惹かれて北海道へ来る人間はまだまだ後を絶たないと思うが、来年、再来年と、また同じような遭難者が出ることは、残念ながらまずまちがいないだろうと思う。

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2002年7月25日
反省だけならサルでもできる
 この稿は東京で書いている。二か月ぶりに帰ってきたもので、きょうが滞在一週間目。この間なにをしていたかというと、なんにもしていない。あまりにも暑いから、それこそ毎日が虫の息、用のない限り家から一歩も出ないでいる。
 東京へはときどき用足しに帰ってくる。いくつか雑用がたまると、その処理にけっこう追われる。そのときいちばん困るのが食事。家の冷蔵庫は空っぽなので食うものがないのだ。おまけに電車に乗らなければ食いもの屋のあるところまで出られない不便なところにいる。面倒くさいから、食事らしい食事をするのは一日一回だけ。あとは買い置きのパンやヨーグルト、チーズや果物で飢えをしのいでいる。おかげで東京に一週間いると体重が減ります。
 今回帰ってきたのは、新宿にあるなじみのオカマバーが七月末で閉店してしまうため。その手の趣味があるわけじゃありません。いわゆる文壇バーで、この二十年あまり、パーティでみんなが顔を合わせると、最後は新宿に流れていって、この店で朝まで、というのがパターンになっていた。せっかくだから集まりませんか、というメールをもらったからほいほいと駆けつけた次第。
 東京の夏の暑さには閉口しているから、日が暮れて千歳を発ったのだけどなんの意味もなかった。そのとき千歳が十七度で、東京が二十七度、機内アナウンスでそれを聞いたときには回れ右して帰りたくなった。しかし札幌の自宅を七時に出て、十一時にはもう新宿にいたんだから日本も狭くなった。もちろん着いたときは宴半ば、大いに盛り上がっていたこというまでもない。
 結局その日も朝までしゃべっていた。最後まで残っていたのはわたしと花村満月、それに船戸与一。その船戸をひとり残して、わたしと満月とが五時半に帰ったのである。翌日はミステリー評論家池上冬樹の出版記念会があってこれにも出席。前夜会った作家のほとんどとは、ここでまた顔を合わせた。
 みんなけっこう小まめに顔を出しているものである。その一方で、ちゃんと仕事もしているから感心する。前夜の新宿で、おまえ先月はどれくらい仕事した? という話になって、花村が五百四十枚、船戸が二百四十枚、大沢が百十八枚、それでわたしはというと、十枚。コラム二本しか書いてなかったのだからしようがない。あえて言い訳をすると、連載が終わり、つぎの連載にかかるまえという事情もあった。たしかに少なすぎるかもしれないが、なに、いいんだ、いいんだ、札幌にいればつき合いの金もかからないし、物価も安い。このごろは霞を食ったって生きて行けるんじゃないかと思いはじめている。
 もちろん、わたしだってまじめに仕事しているつもりだ。今回みたいにたった一週間の滞在でも、ちゃんとパソコンを持って帰っているのだから。
 そのパソコンではまた大失敗をした。また、というのは五月に帰っていたとき、中身を全部初期化してしまうという大ポカをやらかして、そのとき書いていた原稿を四十三枚、いまホームページに連載中の作品を三章分、ほかノートパソコンに入っていたすべてのものを一瞬にして失ってしまったからだ。
 このときはあきらめきれなくて、人に来てもらったり、つてを求めて見てもらいに行ったり右往左往したが、結局もとには戻らなくて、すべて泣き泣き書きなおした。ただいまホームページに掲載している作品も、じつはあとから新しく書き直したもの。そのためにスタートが一か月遅れました。
 このときのノートパソコンのOSがMEだった。MEはそれまでにもしょっちゅうフリーズを起こしていたので、札幌に帰ってから、XPに載せ換えた。それを今回はじめて使ったわけだが、なぜか、出したメールの返事がいっこうにもどってこないのである。インターネットもできるし、メールの受信も支障なくできている。だとしたら、発信もできる、と当然思いますわな。
 ところがこれが、全然発信していなかったのである。セキュリティ用に入れてあったノートンアンチウイルスが、全部握りつぶしていたらしい。こっちはそんなことなど夢にも思いはしない。返事が全然もどってこないからやきもきしていた。するとそのうちのひとりが電話で問い合わせてきた。むこうもこちらからなんにもいってこないからやきもきしていたという。それではじめて、メールが届いていないことがわかった。ノートンのスキャンを外すことで問題は解決したが、ったく、これじゃあ電話のほうがはるかに確実だった。問題が起きるたび、かみさんからは原稿も手書きにもどしたら? などといわれております。
 で、パソコンも快適になったし、北海道はクーラーがなくても涼しいし、今度札幌へ帰ったら気分も新たに、勤勉に仕事し、ほかの売れっ子作家に負けないようがんばろう、とただいま決意を新たにしているところです。こんな決意なら一年に二十回はしています。


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2002年6月23日
書ければの話
 このところ出ている短編集は、「オール読物」「小説新潮」「小説すばる」「小説現代」の各誌に、昨年までほぼ毎月一編ずつ発表してきたものをまとめたものです。改めて数えてみると、全部で五十二編ありました。
  自分の体験やたどってきた道から素材を選んでいるため、これだけたくさん書けば頭も空っぽに、知恵も出尽くしてしまいます。そのため本にまとめるとなると、悪戦苦戦、のたうち回ります。同じ素材、同じような話が何回も出てくるからです。
 その第一作にあたる『きのうの空』が昨年新潮社から出ましたが、全部で十二作あったうち、三本はそういうわけで外しました。ことしの負け犬も、十一本中三本を外しています。これから出る小説すばる、オール読物の掲載分も、何本かそういうものが出てくるでしょう。同じ手が使えないから、あとになってくるほどる苦しくなってきます。
 したがって、もしこれからまだ短編を書くとしたら、これまでのものとはがらっと毛色のちがったものになってくるはずです。書ければの話ですけどね。



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志水辰夫公式ホームページ