Shimizu Tatsuo Memorandum
−自作を語る− 1984年、
講談社より発行
1987年、
講談社より文庫発行
(写真・右)
散る花もあり
散る花もあり

トップページへ     著作・新刊案内

 牛窓という町をはじめて訪れたのはもうかれこれ三十年近くまえのことになる。PR誌の取材で行ったのだが、当時はまだ道路が整備されておらず、むかしながらの狭い道を岡山から一時間以上もかけて走り、なんとも辺鄙なところになってしまったなというのが第一印象だった。内海交通はなやかなりしころの牛窓を、知識としては知っていたからである。
 町を歩きはじめてすぐ、ああ、これはもう終わった町だなと思った。丘陵がちで平野の少ない地形、狭い海と小さな港、古い家並みと細い道路、立て込んでいる街路、海の要衝として千年以上繁栄してきたとはいえ、それは中世の物流に見合ったこじんまりとした規模にすぎず、近代の輸送形態に適応できる余地のなかった町が必然的にたどった結果だったのである。
 一方で懐かしさやほっとするものをおぼえたこともたしかで、はじめてきたところでありながら見なれている町みたいな、郷里へもどってきたみたいな、おだやかさや心地よさをどこにいても感じた。わたしくらいの年齢の人間には、戦前の町のたたずまいや人の暮らしが刷り込みとして頭のなかに刻みこまれている。ふだんは忘れていても、こういう町へやってくると条件反射みたいに失われていたものが突如として甦ってくるのである。残念ながらこれはいまの五十代以下の人には理解していただけないことかもしれない。日本人の生活が今風にがらっと変わったのは昭和三十年代も末ごろからで、それまでは明治大正の生活とそれほどちがいはなかったのだ。たかだかこの三、四十年の文明と経済の発展が、二千年つづいてきた日本人の生活を根底から変えてしまったのである。
 かつては銀行だったという威厳に満ちた建物があり、格子窓を連ねた商家があり、堅固な白壁の蔵があって、洋館と呼ぶにふさわしい昭和初期の和洋折衷住宅などが街を形成していた。海に面して細長くのびた家並みには人ひとりがやっと通れるくらいの狭い路地がいたるところ空いていて、町のどこからでもその路地越しに海が見えた。町外れの造船所では老人がまだ木造の和船をつくっていた。朝の町を散歩していると家の前を掃除している人から例外なくお早うございますと挨拶をされた。
 向かいには前島という細長い島があり、数百メートルしかない狭い瀬戸を小型貨物船が頻繁に通り抜けていた。合間を縫うようにして島と町を結ぶ町営のフェリーが往来していた。自転車を借りて前島を走ってみたが一周するのに一時間かかった。むかし石材を切りだしたという跡地が残されていた。大阪城にある巨岩の多くがこの島から切り出されているのである。
 いまは畑になっている後背地の丘陵にあがると古墳だらけだった。巨岩を使った積石塚がそれこそおびただしく残されていた。数がありすぎるのか、説明もないまま放置されているものがほとんどだった。万葉集に歌われ、朝鮮通信使が必ず立ち寄った港町なのだ。そのせいだろう、近隣と関係なくこの町にだけ韓国の民俗芸能そのものといった踊りが伝えられている。
 町の主だったところへは歩いてそこそこの時間で行けた。なまじ鉄道がなかっただけに地域社会の心地よさみたいなものが濃縮して残されていた。そして鉄道がなかったために時代の流れから決定的に取り残されてしまった。すでに人口の流出がはじまっていた。町の衰退も顕著になりかけていた。人の住まなくなった大きな家をいくつも見かけた。商店街に人気はなく、港にはろくに漁船がいなかった。
 年老いた漁師から話を聞いた。
「魚なんか、おりゃぁせんが。ここらで売っとるのは全部岡山からきた魚だ。わしら漁師が魚を買うて食うとるんじゃけえ」
 磯が焼けて海草のなくなったのがいちばんの原因だと老人はいった。山の木という木を切り倒してしまった報いで海が日に焼け、海草が生えなくなって魚が寄ってこなくなったのだという。魚つき保安林というものがいかに大事か、老人に教えられるまでわたしはまったく知らなかった。魚にとって住みいい海とは、山の木が鬱蒼と繁ってその黒い影が磯辺の海を覆うようなところだというのである。付近の海岸を歩いて魚つき保安林という標柱ならいくつも見かけた。しかし保安林とは名ばかり、すべて植林したての弱弱しい木で、海には陽光がさんさんと照りつけてどこまでも明るかった。それは貧しい海の光景だったのである。
 行政がこの風光明媚を目玉にして観光で町の活性化を図ろうとしているのは痛いほどわかった。町でいちばん見晴らしのいい丘陵にはオリーブが植えられ、ギリシャ神殿風の廃墟がつくられていた。港にはマリーナが、高台にはペンションがぞくぞく整備されようとしていた。しかしわたしにはなんでもない畑のなかににょきにょき突き出ている古墳のほうがはるかに魅力的だった。明らかに古墳を壊した跡だとわかる、巨石がごろごろ転がっているところに行き合わせたこともある。耕作の邪魔になるし、畑はすこしでもひろいほうがいい。だからこっそり壊したものだ。遺跡壊しはなにもここだけのことではなかった。むかしから各地でかなりおおっぴらに行なわれてきたことなのだ。古ぼけたお宮に行くと、ウグイスやコゲラが人を恐れる気配もなく目の前をひょいひょい飛び回って唖然とさせられた。もうウグイスが藪から出てくる季節ではなかった。小鳥が人間を無視しながら生きていた。人間が古墳を無視しながら生きていた。それが自然のなりわいだといわんばかりだった。
 ここまで書いてくると、なにもこれは牛窓という町の特別な事情ではなかったことに気がつく。よそのどこかちがう町の名を当てはめてみても、多かれ少なかれ同じことがいえたはずなのだ。つまりいまの地方がかかえている過疎化とか、衰退とかいった問題は、もう三十年以上もまえから地すべりを起こしてはじまっていたのであり、その端的な兆候をわたしはこの牛窓で見たにすぎなかった。
 今回のこの稿を書くにあたり、インターネットで最近の牛窓の町のようすをのぞいてみた。瀬戸内海をエーゲ海に見立てたキャッチフレーズが氾濫していた。海を見下ろせる丘陵にはペンションが林立し、人口八千人の町に五十もの宿泊施設があるとうたわれていた。そして入り江には西日本でも屈指といわれるヨットハーバーができ、さまざまなイベントが目白押しだった。しかし海に魚がもどってきたのかどうか、町を歩いている旅行者にお早うございますと挨拶してくれる人がまだいるのかどうか、残念ながらその回答になるような手がかりは得られなかった。どこにでもある町になってしまったといえば酷かもしれないが、歴史や装置を人寄せの材料としてしか使えない発想が根底にある限り、どこにでもある手垢にまみれた観光しかできないことは自明だと思う。
 いまの牛窓には行ってみようと思わない。まだしも三十年前の思い出のほうを大切にしたいからである。



自作を語るの目次へ         このページのトップへ